3人の師匠から学んだ教育スタイル

昨年、博士号をとった。


博士号というのは、独立した研究者としてやっていける証明と言われている。つまりこれまでの師匠からは、少なくとも形式的には独立することを意味する。そこでお世話になった3人の師匠について振り返ることとしたい。実は、こんなエントリーを書こうと思ったのは、先日ゼミの飲み会があり、学生がけっこう私のブログや私の何気ない一言を気にしている、あるいは指導スタイルを観察しているということを改めて感じたからだ。ということで僕のルーツを書こう。ちなみに僕は学部、修士、博士と3人の異なる先生に師事し、さらに言うと、それぞれ3年、7年のインターバルがある。


まずは学部時代のS先生。僕は前期課程からゼミが取れるということで大学を選んだ。この先生ご指名でゼミに入りたいというところまでは準備周到な学生ではなかったが、社会学とか社会心理学というものがやりたくて、この先生のゼミに入った。海外留学のための推薦書を書いてもらったり、結婚披露宴でも(その会で唯一とも言える)私の良いところをスピーチしてくれたりとゼミ以外でもとてもお世話になった。S先生はもともとはマルクス理論をやっていたのだが、僕がゼミに所属していた時代はマスコミの専門家という感じであった。97年に他界された時に「マスコミは終わった」と感じたものだ。


そのS先生が口癖のように言っていたのが「問題意識を持て」だった。ものごとをよく観察しろ。批判的意識を持て。自分なりの見解を導き出せ。という意味に僕は受けとっていた。生来の人間観察好きだった私だが、「ではなぜ人はそのように振る舞うのか」という問いを立て、それなりの説得力で論を展開できるようになったのはS先生のおかげである。今、僕が「気をつかわないで、頭つかって」というようなことをたまにゼミで言うのはそういう影響である。


次は修士時代のKa先生。この先生にはS先生のような決まり文句は一切なかった。むしろ研究について議論をすると、毎回言うことが変わるので、それで苦労させられたというのが正直なところである。コメントを真に受けて、翌週再挑戦を挑むと、「あれ、そんなことを先週言った?」という具合であった。年をとってわかったのだが、それは、学生との面談前にどちらかというと受動的に見聞きした(耳学問)具体的なネタを、学生のテーマに結びつけてコメントするというKa先生のスタイルなのだ。中には、その具体例が僕の抽象論にあてまはることもあったが、あてはまっていないことも多かったというわけだ。


でもKa先生のこの性癖は、その編集能力のなせるわざである。「うーん、その話は、この話と近いんじゃないか。実はさー、先日聞いたんだけども・・・」というトークができるのは、常に抽象化と具体化の往復運動と具体的な情報の連結を行っているからである。そして、白状してしまえば、今の僕の学生へのコメントスタイルはこれに近い。ただし、卒論、ゼミ論の指導においては、一応自分がその時に何を言ったかをメモするようにしている。学部の学生があまり混乱しないように。あとKa先生の「けっして親切ではないが、学生から働きかけると相手をしてくれる」というスタイルにおいても私は彼に似ている。


最後は博士時代のKo先生。まず言っておかねばならないのは、博士課程の学生とその指導教官の関係というものはかなりの緊張関係と同時に不平等関係にあるということだ。つまり職探しなどの面から先生にはたてつきにくい状況になる。そんななかで定職がすでにあり、もしよい職があればそちらに移ろうと考えていた僕は明らかに少数派であった。だから、何となく自由にものが言えない、そしてずーっと黙っているKo先生の一言がなかなか出ないと、よくわかっていない博士学生が修士学生に的外れなコメントをするというような場に違和感を感じまくり、要は嫌いであった。


でも実際に博士論文指導を受けるときになってわかったことがあった。Ko先生の黙っているというのも1つの教育スタイルであるということが。実際に論文についての個人ミーティングをすると、要所要所はしっかり押さえていて、「ここはどうなの?」と聞いてくる。そして僕が答えを言うと、「OK。わかった」か「それは違うのではないか」とだけ短く答える。そして沈黙が流れる。結局、博士学生になると自分でとことん考えないと食えないわけだから、絶対に答えは言わないというわけである。残念ながらどちらかというとおしゃべりで、しゃべらないと存在価値なしという経営コンサルティングの世界に10年身を置き、さらにその前はアイディア勝負の広告業界にいた私にはこれはできない(今でも、教授会でさえ思いつきの発言が多いです)。だからKo先生の無口さが異様に映ったわけである。


以上振り返ってみると、抽象度の高いワードを繰り返し研究探索の基本動作を身につけさせたS先生、強い刺激を与え続け具象と抽象の往復運動の訓練をさせたKa先生、黙ることによってとことん考えさせる訓練をさせたKo先生とまとめることができるのかもしれない。僕は大学院生の面倒は見ないので、Ko先生のスタイルを使うことはないだろうが、でも学部生相手でもこれはやらないといけない場面があるだろう。ってこのエントリー自体が、すでにおしゃべり系であるわけだが。