「明日のコミュニケーション」100×100×100で100万人を検証してみた

はてブロの方にも同じエントリーがあります。
http://yuichisasaki.hateblo.jp/entry/2012/01/31/094849


さとなおさんの「明日のコミュニケーション」を読んだ。ソーシャルメディアは「関与する生活者」が動くプラットフォームになった。というコンセプトはそうかもしれない。けど、全体的には論理が粗くて、実務担当者(この手のコンサルティングサービス提供者ではなく古い言い方では広告主側)は眉に唾をつけて読まないといけない、というのが感想だ。一方で、ファンや同業者が読んで元気づけられたり、ソーシャルメディア初心者が大まかな変化を知るには良いと思うけどね。


気になった箇所のうち、ここでは「100万人でなく100人に伝える」という部分を取り上げる。要はマスメディアで伝えるのと同じようにソーシャルメディアを利用することで100万人に伝えられる。しかもマスでの単発のコミュニケーションよりも、ソーシャルメディアで信頼できる友人から伝えてもらったほうが好感度も高いし、エンゲージメントもできるという話。


「100人のエバンジェリスト」はそれぞれのソーシャルグラフに対しておせっかいかつ積極的にその共感を伝えまくる、のだそうだ。だからそれぞれのソーシャルグラフのうち100人が彼ら(エバンジェリスト)のコメントをRTやいいね!し、それがまた100人ずつに伝わっただけで、100×100×100=100万人になるのである。

以上が彼の理屈。


読んでるそばから気になったのは最後の式の3つ目の「100」である。2段階を経て情報が到達した人に果たして100人もフォロワーがいるのか?ということである。


検証してみたのが下の2つの表。大きく4パターンあり、それぞれにRT率を変えた上下2パターンを用意した。

左の表側のEはエバンジェリスト、Fはフォロワー。F1はエバンジェリストのフォロワーでF2はF1のフォロワー。F3はF2のフォロワー。「RT率」「RT数」「フォロワー数」はわかるだろう。「その段階での投稿数(小計)」は「RT数」×「フォロワー数」。「総投稿数」はその段階までの全部の投稿数である。


パターン1-1の上の行においては、Eには400人のフォロワー(F1)がいるが、F1のRT率は10%なのでF2に向かってF1 によってRTされる数は40となる。別の言い方をすると、400人のF1のうち40人だけがRTする。だから、F1によって投稿された投稿数(小計)は200×40で8000となる。総投稿数はこの8000にEによる400を加えて8400。以下同様。


ちなみにF2のフォロワー数は200人、F3のフォロワー数も100人に設定した。先にF2にフォロワーは100人もいないのでは、と書いたが、F2とF1の関係はおおむね水平的と考えてF2は200人して、F3 は100人とした。


注意しないといけないのは、この総投稿数はエバンジェリスト1人についての数字だから、企業が最初に100人のエバンジェリストにメッセージを発したら、総投稿数は100倍になる。なおエバンジェリストのRT率は100%としている。


では数字の検証。パターンは大きく4つ想定したが、まずパターン1-1から行こう。エバンジェリストはある企業のファンだが、まあ普通の人で、でもちょっと情報感度が高い人。とうことで、そのフォロワー数は400人にした。するとF3を経た総投稿数で、弱気(上段)の場合に16万8400、強気(下段)の場合に97万6400。なので、仮に100人のEに企業がメッセージを発したら1684万と9764万。わお。さらにF3からRTされる。右の1-2はEが有名人でフォロワーが1万人いた場合。こちらに至っては、表の総投稿数は421万と2441万なので、100人のEの場合は4億2100万と24億4100万。わおわお。しかもF3にもRTされる。


ただし上の表はRT率も高すぎ、フォロワー数も多すぎると僕は思っている。自分の感覚に従ったのが下の表で、やはり左はエバンジェリストが普通の人で、右は有名人というもの。僕の感覚としては、緑で色をつけた弱気パターンである1万が真実に近いのではないかというものだ。F2のフォロワー数は100人、F3のフォロワー数は50人、しかもRTはなくそこで止まるというモデル。右側のようにもしEに2000人のフォロワーがいたら総投稿数は5万。だからエバンジェリスト100人で100万〜500万。


たしかに100万になった。が、以下大事な注意書き。


このモデルは同一人物が同じ投稿を何度も見ることを無視している。ソーシャルグラフは「類は友を呼ぶ」で均一ではないので(ネットワーク分析の世界では常識)、リーチ(到達人数)は総投稿件数よりも小さくなるはずである。みなさんも自分のタイムラインに複数回同じtweetが表示されるのをみたことがあるだろう。ということもあるので、パターン1-1でも9764万なんて数字が出る(日本のツイッターユーザー数の数倍)。数字が何分の1になるのかはしらないが(大きな行列ほどsparseになるが、数十分の1から数百分の1ぐらいか・・・)、twitterのネットワークがかなり分断的で、身の回りのクラスターだけでやりとしているという研究はたとえばこれ。
http://research.yahoo.com/pub/3386


さらに言うと、ここでの話はソーシャルメディアのユーザーがすべての投稿を読んでいるという仮定になりたっている。すべての投稿を読んだ上で拡散するという仮定。したがって、すべての投稿を読んではいないという条件を導入すると、やはり総投稿件数は小さくなる。このあたりがマーケティング・コミュニケーション的には知りたい数字になると思う(読んでない投稿を含めて投稿数の10%もRTするのかもしれないけれど)。


あと繰り返しになるがエバンジェリストの企業からのメッセージのRT率は100%である。これもありえない数字だろう。50%は超えるにしても。


以上を総合すると、エバンジェリストが100人ならば、元のメッセージが到達するのは3,4万人からせいぜい30万人ぐらいではないか、というのが僕の見解。同じ企業のファンだけど、交友関係がかなり異なるエバンジェリストが400人とか500人いたら、100万人に元のメッセージが届くかもねという感じである。つまり、さとなおさんの「100人のエバンジェリストで100万人」は少しばかり大げさではないかということになる。まあ僕のここでの論もかなあり大雑把だけどね。たしかにF1のフォロワー数10,000人という人が5名RTしたら総投稿数は一気に増えたりするわけで。


大雑把とはいえ自分としてはかなりスッキリした。数字には自信がないが、伝搬のメカニズムについてはかなり深い理解となったので。


もし間違いがあればご指摘を。またすでにわかっている数字があればお知らせを。なお、さとなおさんの「100万人」が間違っているという主張ではないので、そこのところは間違いなく。たとえば僕が思っている以上にRT率は高いのかもしれないし、400人なり500人のエバンジェリストがいれば100万人への伝達は可能なように思いますし、名の知れたブランド力のある企業であればRT率が上昇し500人のエバンジェリストで1000万人に到達させることは可能のように思います。

Google Search Plus Your World

http://yuichisasaki.hateblo.jp/entry/2012/01/19/062617
にも同じ記事があります。


1月10日にGoogleがSearch Plus Your Worldを発表した。
http://googleblog.blogspot.com/2012/01/search-plus-your-world.html


3つの機能、1:Personal Results, 2:Profiles in Search, 3:People and Pages がある。もっとも本質的な機能はPersonal Resultsであるが、これについてはこれまでのSearchの結果もオプションで残される。したがってそんなに大騒ぎする話でもないと思うのだが、日米でかなり話題になっている。というのも、Google+が次のGoogleで、これまでのGoogle Searchは「Google+を中心に据えたWeb」の検索機能になり下がるべし、という同社の戦略の具体像が見え始めたからだ。


ここでは複数の論考を読んでの現段階での感想を2つ書く。


まずは各所で出てくるGoogleはこれまでPeopleには注意を払わず、やっと今回の改訂でそこに踏み込み始めたという話。これ、僕にはとても違和感のある話だ。確かに初期のYahoo!に比べればGoogleは人力に頼らずアルゴリズムでできるだけ処理しようという会社だ。けれどもWebページ間のリンクは人間によって作られたものだから、意識的ではないかもしれないが、昔からGoogleはPeopleの助けは借りていたのである。Webページ間のリンクを張る作業は、少なくとも「Like!」とか「+1」というボタンをワンクリックするよりも手間のかかる作業だから、より人間的だとも言える。もちろん時代とともにリンクは自動生成されるようになったが、それはボタンだってやがて同じ事になるだろう。


だから今回の変更はPeopleを意識した解というよりもFriends,あるいはSocialを意識した解ということになるのだと僕は思う。


第2点。ではFriendsなりSocialを意識したSearchというものは本当に有効なのか、という点。対Facebookを重視すれば、Socialと言ってみることは戦略としては間違っていないのかもしれない。でも戦術レベルとしてどうなのか。もう少し根本的な問いとして言い換えると、検索結果をよりRelavantなものとしてパーソナライズ化するのにソーシャルグラフってそんなに有効なのかということだ。そしてその脇に貼られる広告のCTRにとっても有効なのかということだ。


念のため言うと、現段階でのSPYWへの批判に多い、ソーシャルメディアとしてG+だけを採用するのは検索結果として貧弱という議論をここでしようとしているのではない。そうではなくて、仮にFacebookのデータが検索結果に反映された場合にそれはRelavantなのかということだ。


僕のFacebookソーシャルグラフは約140名。このうちWebサービス関連の人たちが80名ほど。僕がアーリーアダプターだからどうしてもSNSを始めると最初はこの人達ばかりになる。昨年からだんだん増えてきた中学校、高校、大学、大学院での古典的な友人が40名ほど、職場の同僚などがかつてのものを含めて30名ほど。その他が10名ほどである。


当然一部重複がある。大学院での友人だと専門(Web関連)が近いゆえにWebサービス関連の人たちと重複してくるが、それ以前からの友人は実は関心的には近くはない人が多い。職場もかつてはメディア関連のところにいたが、依然マスメディアに従事している人も多いので、同じ職場にいたからといって関心が近いわけではない。だからざっくり言えば、A:「関心が近い人」が半分強、残りはB:「同じ時間と空間を共にした人」となる。20代の人ならばBの比率がもっと高いかもしれないが、こういう僕のソーシャルグラフは30過ぎのやや大きめの会社務めの人ならば、そんなに特殊ではないのではないか。


というソーシャルグラフが、自分がGoogleで検索した時に反映されると検索結果の精度があがるとは思えないのだ(だからオプションは残して欲しい)。たとえば最近自分は日本のWebを振り返ってモノを書いているが、どちらかというと最新の情報と格闘して仕事をしているA:「関心が近い人」が普段接している情報が検索結果の上位に上がってきてもあまり嬉しくない。仮にA:「関心が近い人」であっても。


じゃあ、たとえば恵比寿でうまい焼き鳥屋はどこかと探すとする。その場合はB:「同じ時間と空間を共にした人」の情報は幾分たよりになるかもしれない。友人が恵比寿の焼き鳥屋の情報をLikeしていれば、たしかにその店に対しての興味は喚起されるだろう。でもそいつの味覚の鋭さまでは覚えていないから「友人知」よりも(話題の)食べログの「集合知」の方を当てにするように思う。汎用検索ではなくて、「食べログ」で検索。仮にあいつは「××に詳しかったな」と覚えていれば直接そのことについてメールかFBのメッセージ機能で問い合わせるだろう。


いまここで挙げた2つの例のうち、僕は圧倒的に前者に類する検索を多用する。というように考えてくると、ソーシャルなメタ情報はアルゴリズムに投入する変数としてはかなりノイズが多いのではないかと思えてくる。もちろんWeb関連の検索キーワードであれば、僕のA:「関心が近い人」のグラフを重視し、焼き鳥屋の検索であれば、A:「関心が近い人」のグラフは軽視されるぐらいの芸当はGoogleならやってくれるようになるだろうけど。そしてそのためのG+のCircleだったりするのだろうが。


でも、どうもソーシャルによるパーソナライズ化というのはピンと来ない。ちなみにソーシャルグラフという性格よりもインタレストグラフの性格が濃い、僕のtwiiterやG+の情報を反映した場合は相対的に検索結果はマシになると僕も思っている。ただし程度問題だとも思っている。またFriendsよりもmeが重視されるのであれば、少し品質はアップするのかもとも考えているが、それってソーシャルなのか、と思う。


2点目については、僕の仕事が特殊だったり、僕の想像力が及んでいない、あるいはGoogleの開発能力を過小評価しすぐという部分が大いにある気もする。ですので、もしよければコメントを残して欲しい。

UCSD Visiting Scholar/Researcher(訪問研究員) 小学校事情

同じ記事がこちらにもあります。
http://yuichisasaki.hateblo.jp/entry/2012/01/11/095748


UCSDへVisiting Scholar(訪問研究員)で来ると、住宅は大学付属のLa Jolla Del Solというアパートが第一候補になると思います。ここは大学へのバスの停留所も近くにあり、また歩いていけるところにスーパーもあるため、悪くはないと思います。各国からの訪問研究員の家族が沢山住んでいます。


ただし小学生の子どもと一緒に滞在し、子どもを現地校に入れて、できれば英語を身につけさせたいと「強く」考えているならば、住居と小学校の組み合わせは要検討です。というのは、La Jolla Del Solに住むとすれば、公立の小学校はDoyle Elementary Schoolということに通常はなってしまうからです。


Doyle小学校はLa Jolla Del Solの道を挟んだ向かいにあり、子どもの送迎が義務付けられているアメリカですのでこれは便利です。ですが、この小学校がとにかく特殊なのです。どう特殊かと言うと、UCSDへの訪問研究員の子女が多いため、670名ぐらいの子どもの国籍は30近くに及びます。アメリカ人は半分ほどで残りの半分は外国籍の子どもになります。ELD(English Language Development)のクラスが用意されていて、それを受講している生徒が1/3ほどです。つまり英語をネイティブなみに話す子は2/3です。一方でソフトランディングするにはよい環境とも言えるのですが。


日本人は40〜50名ほどと多く、小学校のとなりが公園なので、放課後はずっと日本人同士で固まって遊ぶということも可能で、そのようにしている日本人の子どもも一定数います(脇でお母さんたちは井戸端会議)。特にこちらのkinder、1年生、2年生は日本人が多いので(これは医学やバイオで有名なUCSDに30歳前半で留学してくるお医者さんなどが多いことから)、こういう環境になりがちです。語学習得はほぼ環境に依存しますので、滞在期間や子どもの年齢、そしてその子の性格(主として外交的か否か、物怖じしないか否かというあたり)も踏まえて小学校を検討するのが良いと思われます。


ちなみにLa Jolla Del Solに住んで、Doyle以外の近隣の公立小学校に通うこともできます。また経済的に余裕があれば私立の小学校に通学という選択肢もあります。こちらにSan Diegoの公立小学校のリストがありますので、参考にしてください。

★サンディエゴ公立小学校リスト

http://www.sandi.net/Page/2389


私が知り得た範囲では、公立小学校としてはDoyleの他に、Spreckels, Curieに通う子がUCSDの近くに住む子には多いですが、Curieは人気があり越境入学者が多いので順番待ちだと聞きました。またUCSDよりも海側に位置するTorrey Pinesは英語ネイティブ比率のみならず、教育熱心な白人の比率が高いようです。

★学校についてのいわゆるレビューサイト:情報の信頼性は不明

http://www.greatschools.org/ 

★UCSDそばのZipコード92122を入れると居住者の人種構成比がわかります

http://projects.nytimes.com/census/2010/explorer 


ただし実際のところは所属するクラスに何人同性の日本人がいるかという問題に帰着するので運しだいとなります。上記のTorrey Pinesのような白人中心のコミュニティは別として、1年生、2年生ですとやはり日本人がクラスに1,2名はいるのがサンディエゴでは普通のようです。ということでまあ、知るだけ知ったが、Doyleでいいやというのが精神衛生上は良いのかもしれません。


さて我が家がどうかと言いますと、住居はLa Jolla Del Solではないものの、そのすぐそばに住んでおり、日本人がここまで多いという事情を知らなかったので小学校はDoyleです。2年間滞在するのと、学年が高めなので、ぜひ英語の基礎を身につけて欲しいと考えていたため、入学当初は日本人の多さに驚き悩みました。ただし一度入学させてしまったのを変えるのはさすがにしのびなくて、結局そのままです。


子どもはDoyleでは4年生に通っていますが(本来は5年生の年齢になりますが、英語力不足と5年生は最終学年で滞在2年目にまた学校を変えないといけないため、1学年下げました)、日本人は34名のクラスで3名。うち1名はこちらで育ったバイリンガル。というわけで、けっして英語ネイティブの子どもばかりではないですが、学年が高く日本人が少ないこと、またクラスが一緒の短期滞在の研究員の子どもは性別が違ったため、ほぼ英語だけでやっているようです。通学4ヶ月でしゃべる方はまだまだですが、聞く方については語彙が平易なものならば私の上を行く場面がしばしば出始めたというところです。


ただしうちの子の場合、英語を覚えたのは小学校以外にも、リトルリーグ(野球)という場が存在しました。これについては改めて書きます。

インフォメーション・ダイエット

The Information Dietという本が出版され、Webサイトもできている。これは大量の情報を消費してInformation Obesity(情報摂取による肥満)にならないようにHabits+Healthy Choiceで解決しようというものである。下のリンクを見るとわかるが、Web界の著名人も挑戦しようとしている。伊藤穣一さんもと書くとウケが良いのかな。

http://www.informationdiet.com/

期せずしてこれは昨年後半から私が強く問題意識を持ち始めたこと。なので今年かなり意識的に実践してみようと思っている。

なぜ実践してみようと思ったのか。

振り返ってみると自分がWebと接していて最も(知的に)面白かった時期は99年、00年、01年頃である。というのはまだコンテンツが手間ひまかけてアップロードされていた時代なので、個人の論考が面白かった。メーリングリストでも投稿するには内容を練ることが必要であった。さらに余計であるにもかかわらず誘惑的な情報(後述)が目に触れることも少なかった。だから想像力を働かせながらそれらを味わうことができた。また現在のように実サービスは想像力には追いついていなかったので、妄想が意味を持っていた。この時期のWebないしは情報への接し方をもう一度再現したい。それが動機の1つ。

もう一つは昨年意識的に使ってきたソーシャルグラフを持った狭義のソーシャルメディアは僕には向いていないという結論を得たから。地震によってtwitterを頻繁に使い始め、その流れでFacebookも同様となった。僕は根本的なところではソーシャルメディアマーケティングの施策というような細かい話には興味がないのだが、一応ソーシャルメディアの専門家なので昨年はかなり使ってみた。マーケティング関係の実務家向けの記事なども読んでみた。また発信面についてもアメリカ生活を始めたこともありFacebookでは日常生活についての投稿も増えた。twitterFacebookを連携させて、どんどんFacebookに情報を流していた。でも誤解を恐れずに言うと、FacebookのNewsfeedは知らなくても何ら問題のない「過剰な近況」の集合であることが確認できた。FacebookのGroupに議論がないわけではないけど、深いものにはアーキテクチャによってならない。

ということで、自分らしいHabitsを今年は確立していこうと思う。Facebookはさらに大変なことになるだろうから。僕にとってはHealthy Choiceは大胆な量的削減を伴うのだが、個別施策についてはおいおい書いていく。


はてブロにも同記事あります。おいおいはてブロオンリーになります。
http://yuichisasaki.hateblo.jp/entry/2012/01/04/061158

はてなブログに乗り換えてみた

http://yuichisasaki.hateblo.jp/
なかなか書きやすいと評判なので、はてなダイアリーからはてなブログに乗り換えてみた。まだその書きやすさはよくわかっていないが、プレビュー画面は悪くない。それと今どきな、はてブ、Like、tweet、それに+1のボタンまでデフォルトでついている。さらに右上には、はてなidまで出ている。


ということは、いずれそういう日が来るだろうとは思っていたけど、ついにネット上のアイデンティティがつながって同一になってしまうということだ。まあ、いままでだって少し手間をかければわかるようになっていたのだがね。そう、yuichisasakiは自分のサブのはてなidだったのだ。ちなみにはてブはこのページの右上に出ているメインidでやっている。

http://d.hatena.ne.jp/yuichisasaki/

僕がブログを書き始めたのは、けっして早くはなくて2004年5月28日である。95年にHTMLを書いた経験はあるのだが、あまりに面倒くさくて自分のサイトを持つということはしなかった。が、9年経ってこれなら良いかもということで始めた。当時は実名で書くということに少なからず抵抗があったので、顕名で始めたのである。

ちなみにその3日後には初めてはてなの近藤さんに会っていて、そのことをブログに書いていた。

http://d.hatena.ne.jp/sameo/20040531/p1

振り返ってみると、2009年までは月に2度ほどは書いていた。これは今となっては驚きである。2010年から投稿が減っていった理由はtwitterを使うようになり、何となくそれで発信欲を満たしていたということと、そもそもWebが自分にとっては面白くなくなっていったということがある。要はモバイル化とそれに伴うリアルタイム化である。

僕は、CGMなり遡ればオンライン・コミュニティというようなユーザー発信型メディアの登場に興奮してマスメディア関連の会社をやめた口だ。なんだけど、発信コストが低くなりすぎたことでメッセージも安っぽくなってしまったこのころのWebに飽き始めたということだ。むろん、価値あるメッセージってのは簡単に定義できないし、Webなんだから居場所をさがせよってのもあるんだけど。

ともあれ、好きな人物である近藤さんがはじめたので、しばらく使うように努力してみよう。

滞在最初期の印象(San Diegoにて)

陽射しは強いが昼間の気温は24度を超えることはほぼない。朝晩は15度ぐらいまで下がるので、やや肌寒い。到着後3週間ほどで、雨が降ったのは1日だけ。それもわずか2時間ほど。乾燥地帯で私の体に必ず起きる朝方の喉の痛みが出た(今はOK)。それがSan Diegoの気候である。ちなみに盛夏でも気温が30度を超えるのは珍しい。冬でも日中は15度まで上がる。これが、この地がPerfect Weatherを持つと言われる所以だ。日本での3月中旬から5月、梅雨時を飛ばして7月初旬までを、それも春以降の湿度を割り引いて往復しているのに近いと思う。


空港に降り立ったときの印象は、妻の実家がかつてあった北九州空港(古いほう)に近かった。福岡空港よりは明らかに田舎な感じ。それでもSANは国際空港で、近々BAがロンドンとの間に直行便を就航させるという。レンタカーを借りて、今回の所属となるUniversity of California, San DiegoのあるLa Jolla方面へ走ると、思ったよりも緑が多く起伏に富んだ景色のなか、20分ほどでUniversity City(通称UTC=University Town Center)に到着した。


まあ、この3週間とてつもない量のTo Doをこなしてきたのだが、それについては書かない。またまだUCSDの方にはほとんど行っていないので、それについても今回は除外する。そのなかで総括すると「年を経たなぁ」というのがこの間に非常にしばしば感じた気持ちである。


1つは自分の経験の上積み。まあ年を重ねたということだ。Californiaはもちろん米国で長期にわたり暮らすのははじめてだが、「相手が何を要求しているのだがまったくわからん」。「そんな風に考えるとはまったく想像がつかなかった」ということはない。たとえば、ファーストフード店で「To go or for here?」と言われたり、スーパーマーケットで「Paper or Plastic?」と言われても、それは経験済みである。これは23年前の初な私がフランスに行った時とは全く違う。当時のフランス語力に比べて、今の英語力の方が上だというのもあるが。


もう1つはメディア環境の変化。23年前は、日本に居ながらにして調べられることには限界がありまくりだった。全て現地に行って、更に別の書類が必要ということが初めてわかるということも多々あった。ところが、今回はそういうことにはお目にかかっていない。


今住んでいるアパートも先輩のVisiting Scholarの人から情報を得て、Webの物件情報とGoogle Street Viewを頼りに、仮契約まで済ませておいたことに象徴されるように、かなりの部分まで日本でできた。アパートについては気になっていた騒音を現地でチェックして、その後すぐに契約した。銀行の支店にしろ小売店舗にしろ、何にしろ全部Webに地図があるから、なかなか難しい電話のやりとりなしで現地に行ける。逆にホテルからアパートに移り、ネット無しの2日ほどが異常に心細かったわけだが。


ただし、このように概ね順調にコトが運んでいるのは、ここの人たちがとても寛容だからである。これは私がCaliforniaに住みたいと思った最も強い動機の1つだが、東の人たちのように、特にNYなどの都市部にある、せかせかしたそしてどことなくアジア人を見下した態度はない。特に、この地域は所得の高い層が住んでいることもあり、みな心に余裕がある。「黒い黒人」にはほとんど出会わない。「年を経たなぁ」ということに関して言えば、23年前のフランスと違い、日本人はここではむしろ少数派で、さらに言えば、韓国人はまだ顔の形から識別できるが、中国・台湾・日本人の区別はできにくくなっている。特に女性は同系列の化粧をしていることもあるので。もう日本は東アジア圏に限っても唯一の先進国ではないのだ。


最後にちょっと自分の専門についての印象を書くと、Smart Phoneの利用とそれに対応する最強のアプリケーションであるSocial Mediaへの諸組織の取り組みの本気度合いを感じる。これだけであれば、日本との差は程度問題かな、と思うのだが、驚いたのは、Appである。PC Web以外に、Smart Phone向けのAppをかなりの割合で広い分野の企業が消費者に対して提供している。特に小売がそうなのだが、日本ではそういうことはまだ起きてないでしょ。だとすれば、ソーシャルゲーム以外の法人向けApp開発企業のスタートアップがもっと日本でも出てきて良いはずだからね。


だとすると、きっと課金方法が電話に近くなるはずなので、ひょっとするとAppは一大経済圏になるかもという印象を持っている。日本にいたときは、アメリカがFrom Web Economy To App Economy(になるよ)というのには、ピンと来なかった今は言っていた意味がよくわかる(もちろんなるかは知らんよ)。


来週はSocial Media Marketingを専門とする若いLecturerを、UCSDのRadyというB-Schoolに日本企業からの派遣できている人に紹介してもらうのだが、そんな話もできればと思っている。若い友人を作らんとSocial Mediaなんてわからんからなぁ。

このひと月

今の気持ちについて語ると、依然としてかなりショックを受けた状態である。地震にまつわる情報についてはできれば知りたくないし、ちょっと頭を使う本なども読む気がほとんどしない。ウェブ関連のニュースにも関心があまりなくなっている。情報に触れたくないし、触れてもが頭に残らない状態。


1995年の阪神淡路大震災の時とは、これはまったく違う反応である。いつでもどこか少し離れたところから客観視するのが得意な自分がこうなったことに正直驚いている。そしてなぜこんなになってしまったのかについて考えると、震災後の4,5日間に映像を見過ぎたからだということに思い当たる。


何と言っても、家が倒壊するというよりも町が消えるという津波の映像がキツすぎた。破壊と消失は本質的に異なるものであると感じた。また1995年と違い、今の私には妻子がいる。だから家族を失った人たちの悲しい、それでいながら天災ゆえに呆然とするしかない気持ちはかつてより想像できる。避難所で子どもの学校の心配をする親の気持ちもわかる。また家族を失いながら被災地で診察をする医師の強さを見れば、自分の不甲斐なさにもいらだちを覚える。


3月11日から1ヶ月以上が過ぎ、国外研究員としてカリフォルニアに出かけるのが来週に迫った。センスのない人たちは「海外に逃げられて良いなぁ」などと言う。でも被災国から逃げるのではなく、このやりきれない気持ちになる情報から逃げるという意味では少しの期待が今の私にはある。転地療法できちんと仕事ができるようになればと思う。