「猫の災難」
先月のことになるが、第540回の三越落語会に行ってきた。この日は「とっておき二人会」なるタイトルで、柳家小三治と桂歌丸が共演するというきわめて希少な場であった。プログラムにも「千載一遇の場に身を置くに等しい」「あと二十年もしてごらんなさい。三越劇場で桂歌丸・柳家小三治のふたりをきいたことを、若い人たちに自慢たらたら述べたてる、嫌味な年寄りがきっと出てくる」と矢野誠一が書いている。
通勤時、たまにPodCastで二つ目を聴いている私だが、それからするとライブの真打、それもこの日の小三治の「猫の災難」はまさに別格だった。うまくことばにできないが、酒やその肴をちょいと失敬してしまうという話をどうしてあんなにおもしろくしゃべれるのかというぐらい面白いのだ。まさに名人芸であり、ひとつの世界なのだ。
実は、芸と技の違いについて、まさに落語の例を挙げながら、山内志朗さんが本を書いている。
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私なりに要約すると、「技」は模倣できるもので、「芸」はそうでないものということである。山内さんは、まさに小三治の落語家論から「セリフは教わったまんまでもいい。特に噺の口調もできておらず、人物のメリハリも満足につかない初心の段階ではまんまでなくてはいけないくらいだ」という部分を引いている。また引用ではないが、小三治が「落語というのは、1つの完結したドラマであって、そこに吸い込まれるときに独特の快楽があるが、その世界は外部に説明されたり宣伝されたりするものではない。だから落語は自分に向かって表現することだ」と言っていることも紹介している。
山内さんのこの本は、<畳長さ>という野心的な概念に関する本なのだが、それが潜んでいるのが芸なのだろう。そしてこの<畳長さ>とウェブのきわどい境界が私にはとても興味ぶかいのである。