続・博士候補になるための審査

個人的なことばかり書いているが,学生の身なので許されるだろう.


当日は明示的な質問はなく,僕の調査設計に対するコメントを,副査の先生方からもらいました.そして僕はそれに対して実質的にはほとんど対応できなかったのです.言葉から受ける圧力を異常に感じていたのでしょう.それが終わるとどっと疲れがでました.


なぜならば,それらのコメントは僕が避けていた「価値」の問題に切り込めという話であり,かつ1人の僕を良く知る先生からのやさしい言葉は僕にとって,「お前ってそんなに薄っぺらな人間でないだろ」と聞こえたからです.


1日たって今日から再始動し,大まかな調査の戦略を立て直しました.同輩と後輩が僕のためにとってくれたメモを見直しながら,ここまでやらないと博士にはなれないだろうという内容をリストにしました.


実は,そのメモの1節に,「購買の概念が変わっているというあたりまで踏み込んでほしい」というのがあったのですが,僕にとって「購買」は「消費」ということばに置き換えられました.そこで,僕は自分の卒業論文を思い出し,部屋にあったものを読み直して見たのです.


驚きでした.


この論文のタイトルは「消費における意識と行動の乖離 80年代消費論」.3年生の時に書いた「戦後日本における個人主義 広告コピーの分析を通して」の続編で,ワープロソフトで書かれているものの,ITの視点はまったく入っていません.調査方法論から見るとお粗末なものです.しかし,


主体性の稀薄化にともなう消費における意識と行動の乖離.これこそ80年代の消費の特徴であろう.

われわれはこういった広告の運ぶ戦略的情報を読み取らなくてはならない.「そうそう,こういう気持ち分かるんだよな」ではなく,「なぜわかるのか」までを考えねばなるまい.広告に自分の気持ちを投射することによって,自分の深層にある気持ちを把握することが必要だ.

くりかえしになるが,わたしは消費社会や物の消費を否定する立場は採らない.むしろ経済の繁栄により「物の豊かさ」が達成されている現時点こそ,「物の豊かさ」を享受しつつ,先に掲げた内面的努力によってわれわれの主体を回復できる時期と考えるのである.


といった今と変わらぬ問題関心についての当時の意見が述べられていたのです.そしてその卒業論文はこういう一説で結ばれていたのでした.

しかしこれらの現象はすべて消費社会の枠内で起こっていることである.たしかに90年代において,消費の動機の主流は「他人との差別化を図る」というものから「誰か(主に自分)のためになる」というものへと移行すべきで,また移行するだろうが,行動面での消費にはほとんど変化はなく,物の消費は順調に行われるだろう.というのも近代産業社会が自ら生んだ呪縛的システムである現代の消費社会では,われわれは商品によってしか自己を表現できないからである.


1992年1月28日,今から14年前に提出されたものです.指導教官の佐藤毅先生は僕が結婚した翌年に他界されましたが,彼にも報いないといけません.


やるべきことはわかりました.あとはやるだけです.