メモをとるということ

先日,こどもに「パパもメモをとりなさい」と言われた.ぎょっとしたが,実はこれは私が妻に言っていることなのだな.彼は聞いていたのだ.


このようなことを私が言う理由には,「言うだけはだれでもできる.問題はそれをやるかどうかだ」という精神論からのものがまずある.一方で,「どうせ忘れるのだから記録に残すべきだ」という情報科学的な理由もある.このうち前者については,主に母から,そして後者については,主に父から教わったものだと感じている.


という僕にとっての当たり前のことが,できない人がいかに多いかということについては,会社に勤め始めてから気がついた.仕事の抜けが多い人がいかに多いか.僕はほとんどの場合,抜けはなかった.メモをとり,こなしていけば抜けは出ない.それはあまりに当たり前のことだったので,「じゃー,どこで付加価値をつけるのか」ということにこれも自然と目がいった.


しかし,このような「メモをとりなさい」という教育はこれからますます,吉と出るか凶と出るかのリスクが高くなっていくだろう.


とにかく色々な情報に触れてしまい,刺激をうける.「あれもやらなくちゃ,これもやらなくちゃ」ということになる.それを全部こなそうとすると,負荷がかかりすぎる.つまり情報量は増加している一方で,アテンションは有限で,時間も有限.体はひとつしかない.この段階でストレスをためる人は絶対に出てくるはずだ.


というわけで,人は,優先順位をつけるわけだ.そのときの基準が,金銭(仕事)だったり,信頼だったり,ブランドだったり,愛情だったり,好悪だったりする.ここまでがうまくできるようになるのもそこそこ難しい.さらに本人の優先順位と他人の優先順位を決めるある種の論理は異なるから,その結果についてまわりから色々言われることもあろう.この段階でストレスをためる人も絶対に出てくる.


そして一番難しいのは,「今日できることは今日やる」というルールよりも「明日できることは明日でよいさ」というルールを運用できるようになることだ.今日の情報技術についてはここのところがぜんぜんダメで,RSSリーダーにおけるBlogの並び順は依然として新着順である.メールもそうだ.すると,人はいつのまにか技術に操られ,どんどんと速度にやられていく.ポール・ヴィリリオが指摘するのはそういうことだろう.


この「明日できることは明日でよいさ」という割り切りが,クオリティ・オブ・ライフ(豊かなる日常生活)へのパスポートだと思うし,そこまでできれば,「メモをとる」という基本動作は悪いことではないと思う.


しかし,脳とコンピュータが接続する時代が仮にやってくるとすれば,僕らの経験してきたこれまでの常識は吹っ飛んでしまうのかもしれない.何しろ,体と頭(脳)は分離してしまうのだから.逆にそれはまったく変わらないものになるのかもしれないが,今の時点ではまるでわからない.そんなことを設計研第7回 予告 - ised議事録 - ised@glocomでの鈴木健氏の発表を聞いて考えた.