ニコニコ動画の生成力

現在、私は「ある種の」タグと経済価値の関係についての分析と記述を進めている。その中で、どうやらこれは読まねばならんと行き当たったのが、濱野智史さんの「ニコニコ動画の生成力」という論考である(思想地図vol.2 所収)。

NHKブックス別巻 思想地図 vol.2 特集・ジェネレーション

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彼の論考は、YouTubeとの比較によってニコニコ動画のタグがその生成力に果たす役割を分析したものだ。なお、生成力とは、作者や個人に帰属する創造性と区別される言葉で、Jonathan Zittrainの用語 "Generativity" *1の訳語である。


濱野が注目するのは、ニコニコ動画の生成力を示す「N次創作」という現象とその量の多さであり、またニコニコ動画におけるカオス性を持つタグである。濱野はタグのカオス性を強調するために、この論考をフーコーの『言葉と物』にも引用された「シナのある百科事典」中の動物の分類から始めているぐらいだ。そして、このカオス性を持ったタグこそが、ニコニコ動画の生成力に寄与している、というのが結論の1つである。


では、なぜカオス的なタグが生成力に寄与しているのか。濱野は、ニコニコ動画のカオス的なタグが、福嶋亮大が言うところの「演算子」に該当していると考える。「演算子」とは、ある事物に与えられる観点やカテゴリーであり、結果としてある事物と他の事物との関連性を触発させるもの、と考えれば、大きくは間違いではない。ニコニコ動画に限らず、ユーザーがある情報に対してアドホックに与えるタグは、それも1つの情報単位に対して複数のタグが与えられれば、自ずとカオス性を帯びる。ニコニコ動画ほどのユーザー数を誇るサービスであればなおさらだ。


そして、ここからが濱野節(アーキテクチャ論者)の真骨頂である。


まず、彼はニコニコ動画のタグが従来型の「誰もがいくつでも自由に付与できる」蓄積型のそれではなく、動画ごとに「最大10個まで」でありながら「誰でも自由に削除できる」という点に注目し、それを淘汰型のタグと名付ける。ついで、ごくわずかな時間しか生存し得ないタグの中にも、ヒットし、どこかにコピー&ペーストされることで生き残るタグも存在すること、そして仮に動画の投稿者がそのタグを自身で採用し、それがロックされれば永遠に生き残ることなどから、このようなタグによる分類法をfluxonomy(生々流転とする分類法)と名付ける。


そして、このようなfluxonomyによって与えられたダイナミックに変化するタグをクリックすることで、N次創作者たちが、そのタグを付けられた動画群を一覧性をもって把握できることが、N次創作につながっていると解析する。すなわち、彼らはタグを通じて、「その動画が別の動画とどのように関係し、連結し、合成されうるのかを把握し、そこからインスピレーションを得ながら派生作品を生み出していく」という見立てである。つまりこのようなYouTubeには見られないアーキテクチャが、その生成力に寄与しているというわけだ。


さらに、最後の部分で、濱野はフーコーの「作者」の概念を手がかりに、ニコニコ動画に対して、以下のような極めて抽象度の高いソフトウェアとしての地位を付与する。それは、東浩紀のいうところの、「訂正可能性」を伝達する仕組みとしてのソフトウェアである、と。これが本稿のもうひとつの結論であり、濱野が最も主張したかったことはこちらにあるはずだ。


この結論については唸らざるをえない。だが、現在の私の仕事とは直接には関係しないし、私の理解も不十分である可能性もあるので、ここではこれ以上は深入りしないでおく。興味のある方は原典に当たってみて欲しい。

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*1:Zittrainは、Web2.0はGenerativityの終焉につながる可能性があると論じている。なぜならば、多くのケースで1つの事業者が、閉鎖的かつ集中的にデータを管理するからである。彼は、理想的には、ローカルに(たとえばPCのハードディスク内とか)データやアプリケーションは置かれるべきと考えているようで、Generativityを保つ方向性として、「Maintaining Data Portability」、ないしは、「ネットワークの中立性からAPIの中立性へ」といったことが主張される。したがって、ニコニコ動画をケースとして論じられるGenerativityという概念は、ZittrainのGenerativityとは厳密には違う可能性がある。ただし私にはZittrainの、Web2.0がGenerativityの終焉につながる可能性があるという主張の説得力は不足しているように感じられる。別にそこまでオープンであることにこだわらなくても生成力は担保されるのではないか、という立場である。ゆえにニコニコ動画でGenarativityを論じることはアリだと思うし、濱野の論考は実際のところニコニコ動画の生成力を示している。