情報生産,マイクロ・ペイメント,動的な信頼,に関わる技術

本来インターネットをはじめとする情報ツールはダイレクトに情報を受発信することで,偏った情報の修正手段となるはずだった.インターネットがかえって偏った情報化をあおり,私たちの不安感を増幅しているとしたら皮肉である.一番問題なのは実態と認識の乖離がもたらす不安感に付け込もうと輩の存在である.情報化時代においては,情報に踊らされない術を私たち一人一人が身につけて冷静に対応することがますます必要とされている.


これは,日経新聞の1月29日の「経済論壇から」に大阪大学大竹文雄教授が書いた文章の結論である.正論ではあるが,あまりに当たり前で物足りない.「インターネット」を「ラジオ」と置き換えれば,80年前でも出てくる結論だ.


大竹氏の論考は,ライブドア堀江貴文氏の逮捕とヒューザーの小嶋社長の証人喚問から始まり,企業倫理,企業価値を主題とする.そして適切な企業情報の開示と不正を監視するシステムの構築の必要性を説く.また企業の実態と株価が乖離する原因として,インターネット取引による個人投資家の急拡大にも触れる.そこでは,第一生命経済研究所主席エコノミストである熊野英生氏の記事(週刊エコノミスト1月3日・10日号)が紹介され,

彼らの投資スタイルは企業の実質価値ではなく,むしろチャート分析を重視している.またその情報源はネット掲示板やブログだという

という引用がされる.


ここから話はメディア論に展開する.京都造形芸術大学芹沢一也氏の論考(論座2月号)からは

「治安が悪化しているという統計的事実がないにもかかわらず社会の不安意識のボルテージがあがっているという」

という引用,国際基督教大学教授の村上陽一郎氏の論考(現代思想1月号)からは

メディアの「災害や事故に関する執拗かつ過当な情報合戦」から人々は強い影響を受けがちだからである

という引用がなされる.またコロンビア大学教授のアレクサンダー・スティル氏の『無関心−なぜ四〇歳以下のアメリカ人はニュースを見ないのか』(デービッド・ミンディチ著)に対する書評から

アメリカではこの十五年間,犯罪が劇的に減少しているが,テレビのローカルニュースでは全体のほぼ60%を犯罪事件が占めている

というアメリカの話も動員される.


さて,何が大竹氏の結論に足りないのだろうか.


それは情報技術について,具体的には,ハードウェア・ソフトウェアについての価格低下と,マイクロ・ペイメントとソフトウェアのアルゴリズムとインターフェースに関する革新の視点である.これは大竹氏の専門や掲載媒体からして無理のないことだが,だからこそ補足しておこう.


僕は6年前に書いた本で,今後,ネットワーク経済社会がネットワーク経済社会らしい秩序を得るためには,生産技術とマイクロ・ペイメント技術の革新が必要だと気がついた.Linuxを扱ったその本では,ソフトウェアの生産(開発)技術に革新が起きたことを述べた.そしてこのソフトウェアの価値をお金にきちんと換えるにためにディストリビュータという仲介者が必要であると論じた.ここではマイクロ・ペイメントの問題はさほど起きていない.


だが,ソースコードを書くことが3度のメシよりも好きなハッカーたちがきわめて低いコストで開発する汎用的ソフトウェアだからこそ,このモデルは成立する面がある.では,たとえば,それがソースコードではなく,自然言語で書かれた情報だったらどうなるのか.これが次のテーマとなった.


すると普通のユーザーたちのまわりでも情報生産技術の革新が起きた.それは正確に言えば,革新ではなく改善だが,ある閾値を越えるととんでもない力を持つ改善もある.それがCheap Revolutionと呼ばれる所以だ.(ハッカーではない)普通のユーザーは,数万円のPC(ハードディスク)と世界で一番安い部類に入る常時接続回線を手に入れた.おまけにBlogという簡単なコンテンツマネジメントシステムの登場.これによってCGMということばが生まれ,どんどんとコンテンツが安いコストで生産されるようになった.ただしここで実現されたのはP2Pの世界ではなかった.やはりユーザーが発信した情報は誰かが管理するサーバーに蓄積された.運営事業者の不安は募った.


なお悪いことに,ソースコードと違い自然言語で書かれたそれはまとまったお金になりにくい.プログラム情報ではなくて,データ情報には解釈という厄介な問題が入り込むからだ.だから当時(2000年から2002年)のCGM運営事業者は情報の価値よりも集客力を競い,アクセスをトップページに集中させ,マス型の広告媒体として収益化することに走った.この流れは現在でも主流であり,それが「彼らの投資スタイルは企業の実質価値ではなく,むしろチャート分析を重視している.またその情報源はネット掲示板やブログだという」という部分とつながってくる.そして数は少ないが技術指向の強い会社だと,アプリケーションソフトの外販に走った.


すると今度は,PageRankに続いて,RSSPermalinkが普及してきた.そして大規模な検索技術の進展(ハード・ソフトにおける技術革新の複合体)がこれと呼応して,情報へのアクセスは分散化しはじめた.時同じくして,コンテンツマッチの技術を利用した広告が,成果報酬型というビジネスモデルで普及し始めた.マイクロペイメントにおける革新である.2005年からこの流れは本格化した.どうやら,相当少ないページビューでも損益分岐点は越えるようになってきた.しかもそのときの売上高はこれまた非常に小さい.運営事業者は安堵を得た.


だが,この2つ,すなわち情報生産技術とマイクロ・ペイメントの技術革新があっても,ことはすんなりとは進展しない.それに気づいたのは,2001年から2002年ごろである.いくらインターネットがあっても,マスメディアがあれば,人の接触する情報はかなり限定的になる.おまけに(マス型の)インターネット広告が成長すると,ネットもどんどんマス化した.これはRSSPermalink技術を含んでいるBlogが増えたとしても同じこと.Blogの人気投票結果によって人は情報に接触している.


さて,ではどうしたらよいのか.「よい」のかという問いの立て方はあまりよくないかもしれない.「変わる」のかというほうがよいかもしれない.


おそらくその答えはソフトウェアのアルゴリズムとインターフェースの中にあるのだろう.それは信頼の問題といってもよいだろう.もう少し正確に言うと「動的な信頼」だ.これに気づいたのは,1996年だが,ソフトウェア技術の問題と自分の中で結びつけて考えられるようになったのは,2003年ごろである.この問題に気づいている人たちはけっこう世の中にいて,すでにこのコンセプトをアルゴリズムとして実装するものが出てきている.でもまだインターフェースがエレガントではない.アルゴリズムは論理の世界だが,インターフェースは心の世界だ.したがって,その答えはなかなかでないだろう.それは観察と実験の繰り返しだろう.


実はマイクロペイメントの一方式であるコンテンツマッチ広告にも論理の世界と心の世界が存在する.したがってこれもまだまだ不完全なものだろう.ハードウェアと回線の話だって,途上国まで考えればまだまだだろう.


というわけで,情報生産,マイクロ・ペイメント,動的な信頼の問題のすべてが情報技術によってクリアされることで,はじめて「ネットワーク経済社会がネットワーク経済社会らしい秩序を得る」ことが可能なのではないかと最近は考えている.そして,その時には,冒頭の結論とはまったく違う結論が,経済学者からも出てくるようになるのではないだろうか.


それともまだ抜けている要素があるのであろうか?あるいは心の問題は情報技術では乗り越えられないのだろうか?