父のこと、父とのこと(佐々木明/巨椋鴻之介)その2

前回

その後、帰国して、構造主義なるものがそういう名前を持ち始めると、ちょっとだけ時の人となったようで、新聞や雑誌にその紹介記事やエッセー的なものを書いていた時期もあったようだ。でも、小学校、中学校、そして高校時代ごろまで、私から見ると父はいつも寝ていた人であった。活動時間帯が夜中から明け方にかけてだったこともあり、とにかく「いつも寝ているなぁ」という感じだった。


ただし、いま私自身が研究者になって思うのは、「あとに残る仕事」を選んで、そうでないだろう仕事を回避し、ひょっとすると軽蔑していたことが、「いつも寝ている」ことを可能にしたのだろうということだ。元同僚で友人でもある中条忍さんが弔辞でも触れてくださったように、父はGrande Idee と Petite Idee を峻別し、後者には与しないことはもちろん、それを軽蔑し、関わらないようにしていた。これは私も子どもながらに感じていて、父は「きちんとした」人だと常々思っていた。そういう人だからこそ仕事についても残るものを選んで取り組んでいたのだと思う。


けれども、その仕事の数の少なさにはもう1つの理由があった。仕事の時間を奪うもの。それが父にとっては詰将棋であった。


後述する父の著書にも書いてあるように、詰将棋という「身を削る遊び」は実人生とは共存しえないものらしい。事実、私は彼が盤にむかって詰将棋あるいはその作問をしている姿は昔から目にしていたけれど、その中身について話したことはなかった。本当になかった。それに向かっているときの彼は、他の家族の会話など聞こえていなかったし、話しかけるなというオーラさえ持ち合わせていた。


この詰将棋との父の関わりについて、ちょっとほのめかしている部分が先の「青山フランス文学会会報」にある。


本郷は、渡辺一夫、杉捷夫、井上究一郎、小林正の諸先生の時代で、それぞれに何かを負うているけれども、「自分史」ということになると、むしろ別の世界の先生のことを話したい。河野興一さんという方で、まあ大雑把に分類すると哲学者。和辻哲郎さん、谷川徹三さんのことを和辻、谷川とよんでいらしたからほぼ同年代で、当時65歳くらいでいらしたはず。哲学者だが、polyglotte,語学の天才だった。英独仏は当たり前、哲学者だからギリシャ・ラテンも当然、それにロシヤ語など東ヨーロッパの言語がお出来になった。多分ポーランド人のはずだがシェンキェヴィチという作家の『クォ・ヴァディス』の翻訳をなさっている。東北大学の先生をなさっていたが50代でお辞めになって、私がお目にかかったころは岩波書店の顧問をなさっていた。岩波に小さな部屋をもっていらして、何かのきっかけで私がその部屋に通うことになった。それと同時に、二ヶ月に1度くらい岩波で河野さんを囲む会とでも言うのか、先生が話をなさりそれが終わった後で雑談をする会があった。河野さんを尊敬している人は多くて、その会には中村光夫さん、加藤周一さん、寺田透さんも見えていた。そんな中で二十代の「子供」が一人、後ろの方でかしこまっていたわけだ。


どういう所に惹かれたかというと、さっきから言っている世の中に役に立たない世界で生きている人で、あんなにスケールの大きい方はなかった。語学の堪能さと知識の広大さ、特にギリシア・ラテン文化に関しての。それからそういう知の世界を扱う態度だな。河野さんという方はまとまった著作を最後まで残されなかったんだよ、翻訳はずいぶんとなさったけどね。何だか、いつも遊んでおられるように見えた。東北大学をお辞めになったのは、これからは庭椅子で好きな本を読むことにした、ホメーロスを読むことにしたからだとおっしゃっていた。そういう遊びの態度、ホモ・ルーデンス、そういう姿勢に惹かれたんだな。自分の本の整理をしている間に、オレも結局そうなったなぁ、と思ったよ(笑)。何だかまとまった仕事もしないで結局遊んでいた、と。遊んでいる世界の広さは河野さんには遥かに及ぼないけれどね。私がいま授業でプルーストを読んだり、フローベールを読んだりしているのは、河野さんのホメーロスと同じことさ。

つづく