父のこと、父とのこと(佐々木明/巨椋鴻之介)その1

10月7日に父が逝った。


この4年間は彼の死について家族で覚悟を固め続ける時間だった。そういう意味では準備はできていた。だから納棺以降はむしろ悲しみよりも清々しさに近い気持ちが私自身には去来した。ただし、結局間に合わなかった死に顔を見た時は、やはり悲しみで涙がこみあげてきた。


その時、どんな風に思うのだろうか、ということはしばしば考えてきたけれど、想像はできなかった。そしていざ、直面してみると、私の心の中に浮かんできたことばは「ありがとう」というものだった。まあ、子どもを信頼して好きにやらせてくれたことへの感謝の気持ちが一番強かったんだと思う。


ウェブには父が書いたものは全くない。そこで、今回は私が彼のこととその最後の数年についてブログに残すことにする。ちやほやされるよりも、引きこもって考え事をするほうが断然好きだった父なので、いやがるかもしれないが、もうこの世にいないから許してくれるだろう。


私の父は佐々木明という仏文学者であった。本人曰く、最も大きな仕事はミッシェル・フーコーの『言葉と物』の翻訳という人である。19世紀末から20世紀が専門で、人物としてはポール・ヴァレリーマルセル・プルーストというあたり。もともと数学者になりたかったが、第三外国語で学んだフランス語の音に魅了され専門にしてしまったため、変り種とされることが多かったようだ。事実、語学習得の耳は良くて(後に耳は遠くなるが)、フランス語の発音はとても20歳くらいからはじめたとは思えないほどきれいだった。


そんな彼が30歳前後だった時の、はじめてのフランス滞在についてはこんな記録があった(1962年から65年の3年間のことで、私の生まれる5年ほど前の話だ)。出所は退官となった2001年度の「青山フランス文学会会報」のインタビュー記事である。


時代の空気を説明すると、後に構造主義と呼ばれるものが、まだそういう名前もないしその担い手たちも無名だったが、確かに空気の中にあった。構造主義や、それを文学に適用したヌーヴェル・クリティックは、いささかの原理を持っているように見えたし、少なくとも自分が本郷で学んだものよりも文学を直接に扱っているような気がした。それを学んで帰るか、という方向に関心が移ってきた。


だから、その担い手と目される当時無名の人びとの授業を探して出た。ロラン・バルトがソルボンヌの、たしかRue Saint-Jaquesに面したEscalier E, deuxieme etageという所でやっていたので、行ってみた。社会学みたいな授業をしていてね、italianiteと称して、イタリア的なるものが社会学的にいかなる機能を持つかという話だった。それを説明するのにバルトが教室でスパゲッティを食ってみせたよ。変な授業だったな(笑)。フーコーに関しては、こんな文章を書く人がいるのかって、彼の文章の質に驚いていたので、パリにいたらぜひ聞きに行きたかったんだけれども、当時はクレルモン・フェランにいたのでダメだった。あとラカンは、フランス人の友達に生意気な奴がいて、ラカンは今に問題になると言うので、全くのスノビズムからゼミナールに出て行った。病院の中でやっていたよ。ラカンという人は、宗教の教祖のようなカリスマ性のある人で、じっーと考えてからおもむろに口を開く、その移り行きに人を呪縛するものがあった。それを見ていたよ、私は。「見て」いたというのは、言っていることは一つも分からなかったからだ(笑)。


つづく